働いて稼ぐお金より国から受け取る支援金のほうが多かったら、人は働き続けるでしょうか?福祉制度をめぐる論争で、昔から繰り返されてきた問いです。今からおよそ190年前、イギリスはこの問いにきわめて断固とした答えを出しました。助けを受ける貧しい人の境遇は、最も低い賃金で働く人よりも必ず悪くなければならない、というものです。この原則こそが「劣等処遇の原則(Principle of Less Eligibility)」です。
劣等処遇の原則とは、簡単に言えば「公的な救済を受ける人の生活水準は、自ら働いて暮らしを立てる最下層の労働者の生活水準よりも低くなければならない」ということを意味します。1834年のイギリス新救貧法の骨組みとなったこの考え方は、福祉が怠惰をあおりかねないという懸念から出発し、名前と姿を変えながら今日の福祉論争にもなお残っています。
本資料では、劣等処遇の原則が登場した背景と核心となる内容、この原則が生み出した救貧院の現実、そして現代の福祉制度に残した痕跡と課題までを順に見ていきます。

救済は労働よりましであってはならないという考え
劣等処遇の原則はなぜ生まれたのか?

イギリスでは1601年のエリザベス救貧法以降、教区が集めた救貧税で貧しい隣人を助ける体制が続いていました。ところが18世紀末、人口の増加と戦争、穀物価格の急騰が重なり、助けを必要とする人が大きく増えました。
(1) 賃金を補っていたスピーナムランド制度
1795年、バークシャーのスピーナムランドに治安判事たちが集まり、パンの値段と家族の人数に応じて足りない賃金を救貧税で補う基準表を定めました。このスピーナムランド制度(Speenhamland System)はイングランド南部の農村に広まりましたが、教区が不足分を埋めてくれると知った農場主たちが賃金をさらに低くするという副作用を生んだと批判されました。
(2) 1832年王立委員会の診断
救貧の費用が膨らみ続けると、イギリス議会は1832年、救貧法の運用を調べる王立委員会を設けました。エドウィン・チャドウィック(Edwin Chadwick)と経済学者ナッソー・シーニア(Nassau William Senior)らが加わった委員会は、古い制度は費用がかさみ運営もずさんだと結論づけ、その解決策として劣等処遇の原則を打ち出しました。
原則の核心となる内容

1834年の委員会報告書は、救済を受ける人の境遇が、最下層の自立した労働者の境遇よりも、実際にも見かけの上でも望ましいものになってはならないと明言しました。ここでの「Eligibility」は資格ではなく、「選ぶに値すること」という古い意味で使われています。救済は労働よりも魅力の乏しいものでなければならない、という意味です。
- 院外救済の廃止(Abolition of Outdoor Relief):自宅で暮らしながらお金や物品を受け取る方式をなくし、働ける人には救貧院の中でのみ援助を与えるようにしました。
- ワークハウス・テスト(Workhouse Test):救貧院に入ると申し出ること自体を、本当に貧しいことの証拠とみなしました。過酷な労働と厳しい規律に耐える覚悟のある人だけが助けを求めるだろうと考えたのです。
- 中央による統制(Central Control):複数の教区を救貧法連合にまとめ、中央の救貧法委員会が全国に同じ基準を適用するようにしました。
この勧告は同じ年、救貧法改正法(Poor Law Amendment Act)、一般に新救貧法と呼ばれる法律へとつながりました。その土台には、人口は食糧より速く増えるとするマルサスの人口論と、人は快楽を求め苦痛を避けるとするベンサムの功利主義がありました。
救貧院の現実と批判

新しい制度のもとで建てられた救貧院は、少ない費用で多くの人を閉じ込めることに重点を置いて次第に監獄に似ていき、反対する人々はこれを「救貧法のバスティーユ」と呼びました。
(1) 引き離された家族
救貧院は収容者を性別と年齢によって分けて生活させました。夫婦と子どもは同じ建物の中にいながら別々に暮らさなければならず、この家族の分離はとりわけ激しい反発を招きました。
(2) アンドーヴァー救貧院事件
1845年、ハンプシャーのアンドーヴァー救貧院で、飢えた収容者たちが肥料を作るために砕いていた骨についた骨髄や軟骨をかじって食べていたことが明るみに出ました。この事件で議会の調査が行われ、1847年には救貧法委員会が閣僚の加わる救貧法庁(Poor Law Board)に改められました。
(3) 文学と改革者たちの批判
チャールズ・ディケンズは小説『オリヴァー・ツイスト』で、救貧院の子どもがおかゆのおかわりを求めたことで大騒ぎになる場面を描き、この制度を風刺しました。1909年には、ベアトリス・ウェッブ(Beatrice Webb)が主導した王立委員会の少数派報告が、貧困の原因を個人よりも社会の構造に求めて救貧法の解体を主張し、この考えはのちのベヴァリッジ報告へと受け継がれました。救貧法は最終的に1948年の国民扶助法(National Assistance Act)によって廃止されました。
現代の福祉に残る痕跡

救貧院は消えましたが、福祉が働く意欲をくじいてはならないという考えは、今もさまざまな制度や論争の中に生きています。
(1) 最低限の生活と勤労意欲の綱引き
公的扶助の給付を最低賃金で稼ぐ所得より低く抑えるべきだという主張は、劣等処遇の原則と同じ根を持っています。反対に、給付を下げすぎれば最低限の人間らしい暮らしさえ守るのが難しいという反論も対立しています。韓国の国民基礎生活保障制度も、働く能力のある受給者に自活事業への参加を条件とするなど、二つの価値の間でバランスを探っています。
(2) 福祉の罠とスティグマ
働いて所得が少し増えると給付がその分だけ削られ、かえって損をしてしまう現象を福祉の罠(Welfare Trap)といいます。今日では給付を下げるよりも、勤労奨励金のように働くほど支援が増える仕組みでこの問題を解こうとする試みが多くあります。また、助けを受ける人に恥ずかしさを感じさせるスティグマ(Stigma)は、本当に必要な人まで申請をためらわせるという点で、劣等処遇の原則が残した影だと指摘されています。
劣等処遇の原則は、救済は労働よりましであってはならないという単純な考えから出発しましたが、その結果、貧しい人を助ける制度が貧しい人を罰する制度に変わってしまうこともありました。この原則の歴史は、福祉を設計するときに働く意欲と人間らしい暮らしをともに守ることがいかに難しいかを示しています。今日よく耳にする「働く人が損をしてはならない」という言葉の中にも、190年前の問いがそのまま込められています。
助けの敷居をどれほど高く設けるかを問うこと。それが公正な福祉を考える社会福祉学の第一歩です。