イギリスの歴史ドラマを見ると、村の教会の前に貧しい人々が集まってパンを分けてもらう場面がよく出てきます。そのパンは誰かの善意だけで用意されたものではなく、村の住民が法に従って納めた税で用意されたものでした。
この制度の出発点こそが「エリザベス救貧法(Elizabethan Poor Law)」です。エリザベス救貧法とは、1601年にイングランド議会が定めた法律で、貧しい人を助けることを教会の慈善だけに任せず、各教区が税を集めて責任を負うよう定めた制度を意味します。
本記事では、エリザベス救貧法が生まれた背景と主な内容、貧しい人を分けて助けた方法、そしてこの法律が残した限界と今日の社会福祉に与えた影響までを順に見ていきます。
貧困を共同体の責任と定めた最初の法律
エリザベス救貧法が生まれた背景

エリザベス救貧法はある日突然つくられた法律ではなく、100年近くにわたって積み重なった社会の変化への答えでした。
(1) 修道院が消えた後の空白
中世のイングランドで貧しい人の世話をするのは、主に修道院と教会の役目でした。ところが1530年代後半にヘンリー8世(Henry VIII)が修道院を解散したことで、飢えた人々が頼れる場所は大きく減ってしまいました。
(2) 土地を失ってさまよう人々
同じ頃、羊毛産業が大きくなるにつれて、地主が農地を柵で囲って羊を飼う囲い込み(Enclosure)が広がりました。仕事を失った農民が都市や路上に押し寄せると、さまよう貧民は社会秩序を揺るがす問題とみなされるようになりました。
(3) それまでの法律を一つに整理
イングランドは16世紀の間に貧民に関する法律をいくつもつくり、1597年には貧民監督官を置く法律も設けました。1601年の救貧法は、こうして散らばっていた規定を整えて一つの体系にまとめたものです。エリザベス1世(Elizabeth I)の治世43年に成立したため「エリザベス43年法」とも呼ばれ、後に出たいくつもの改正法と合わせて、よく旧救貧法と呼ばれます。
教区が税で貧民を助ける仕組み

エリザベス救貧法の最大の特徴は、貧しい人を助ける役目を国全体ではなく、各村の教区(Parish)に任せた点です。
- 教区(Parish):教会を中心に分けられた地域の単位で、救貧法を実際に運営する行政単位でした。
- 貧民監督官(Overseer of the Poor):教区ごとに選ばれた人で、税を集め、助けが必要な人を見極めて支援しました。
- 救貧税(Poor Rate):教区内の土地や家を使う人々から集めた税で、貧民救済の財源になりました。
監督官は同じ村に住む隣人だったため、誰が本当に苦しい状況にあるのかを比較的よく知ることができました。またこの法律は、貧しい親と子が互いを扶養する責任があると定め、家族の役割もあわせて強調しました。
当時の教区は、一つの教会を中心とした小さな村の単位でした。住民どうしがよく知り合っている規模だったため、働かずに助けだけを受けようとする人を見分けるのも簡単でした。その反面、監督官が勝手に人を判断し、差別する危険もあわせ持っていました。

貧民を三つに分けたやり方

救貧法は貧しい人をみな同じように扱わず、働けるかどうかによって分け、それぞれ違う方法で対応しました。
(1) 働けない貧民
老人、病人、目の不自由な人のように、自分で働くことができない人々です。こうした人々にはお金やパン、服を配ったり、救貧院で暮らせるようにしたりしました。
(2) 働ける貧民
体は健康なのに仕事がない人々です。教区はこうした人々に仕事と材料を用意し、働かせました。
(3) 働くことを拒む貧民
働けるのに働かないとみなされた人や浮浪者です。こうした人々は矯正院や監獄に送られ、厳しく扱われました。貧しい家の子どもたちは技術を身につけるために徒弟に出されましたが、自分で生計を立てる力を育てさせようという狙いでした。
家の中での救済と家の外での救済
救貧院のような施設の中で助ける方法を院内救済、自宅で暮らす人にお金や物品を与える方法を院外救済と呼びました。施設を建てるには大きな費用がかかったため、実際には院外救済のほうがはるかに広く使われました。働ける人を施設に集めて働かせる救貧院が本格的に増えたのは、1723年の法律ができた後のことでした。
救貧法の限界と残した遺産

エリザベス救貧法は200年以上にわたってイングランドの貧民救済の骨組みとなりましたが、時がたつにつれていくつもの問題を見せるようになりました。
(1) 教区ごとに異なる支援
運営の基準が別になかったため、教区ごとに支援の水準が大きく違いました。すると貧しい人々がより手厚い教区へ移っていくことが起き、1662年には出生や結婚などでゆかりのある教区でしか支援を受けられないようにする定住法がつくられました。
(2) 産業化がもたらした危機
1795年には、パンの値段に合わせて低い賃金を補うスピーナムランド制度(Speenhamland System)が登場しました。しかし産業化と凶作、ナポレオン戦争が重なって費用が大きく膨らみ、結局1834年の新救貧法(Poor Law Amendment Act)によって大きく変わりました。
(3) 公的扶助のルーツ
救貧法の体系は、1948年にイギリスで国民扶助法が施行されたことで正式に幕を閉じました。それでも、貧困を個人の不運ではなく、共同体が税で責任を負うべき問題とみた考え方は、今日の公的扶助制度の出発点と評価されています。
エリザベス救貧法は、貧しい人をより分けて扱い、労働を強いたという限界を抱えていましたが、貧民救済を初めて法と税の領域に引き入れたという点で大きな意味があります。今日の生活保護のような制度も、その長い流れの上に立っています。
400年あまり前に村の教会の前で配られた一つのパンが共同体の約束だったと知ること、それがエリザベス救貧法を理解する第一歩です。