発表を前に心臓がどきどきしすぎて頭の中が真っ白になったこともあれば、締め切りが目前に迫ってようやく集中できた経験もあるでしょう。逆に、緊張がまったくないときは仕事が手につかず、だらけてしまいがちです。緊張はなくても問題で、多すぎても問題に見えますが、それではどのくらいがほどよいのでしょうか。
この問いに対して長く引用されてきた説明が、ヤーキーズ・ドットソンの法則(Yerkes-Dodson Law)です。覚醒や緊張が中くらいのときに成績がいちばん良く、低すぎても高すぎても下がるという、逆U字曲線としてよく紹介されます。ただし、この曲線が最初に出たときの姿そのままではないという点が、この法則を読むうえで重要な鍵になります。
この資料では、1908年の元の実験から、逆U字曲線として固まっていった過程、課題の難しさによってほどよい緊張が変わる理由、そしてこの法則の限界と日常での使い方まで、順に整理します。
緊張とパフォーマンスの関係を読む方法
1908年、ダンシングマウスから始まった実験

法則の名前は、アメリカの心理学者ロバート・ヤーキーズ(Robert Yerkes)とジョン・ドットソン(John Dodson)に由来します。二人は1908年に「刺激の強さと習慣形成の速さの関係」という論文を発表しました。対象は人ではなく、日本産のダンシングマウスでした。
実験は単純でした。マウスの前に白い通路と黒い通路があり、白いほうへ行かなければならず、黒いほうに入ると弱い電気ショックを受けます。研究者たちはショックの強さを変えながら、一日に十回ずつ同じテストを繰り返し、マウスが黒い通路を避ける習慣をどれだけ早く身につけるかを測りました。ここに、二つの通路の明るさの差を小さくして区別を難しくする条件も加えました。
最初はショックが強いほど早く学ぶだろうと予想しましたが、結果はそうではありませんでした。中くらいの強さのショックでいちばん早く覚える場合が現れたのです。この意外な結果を追いかけるために実験が増え、その過程で通路の区別が易しい場合と難しい場合を分けて比べることになりました。この比較が、のちに法則の核心になります。
課題が難しいほど、ほどよい緊張は低くなる

元の論文が出した核心の結論は、逆U字曲線ではなく、課題の難しさによっていちばん良い刺激の強さが変わるということでした。区別が易しいときはより強いショックが学習を早め、区別が非常に難しいときは閾値に近い弱いショックのほうが良い結果でした。
(1)易しい課題
単純で慣れた仕事は、緊張が高いほど力が出る傾向があります。単純な繰り返し作業や力仕事がこれに近いものです。
(2)難しい課題
判断と記憶がたくさん必要な複雑な仕事は、緊張が高まると考えが狭くなり、ミスが増えやすくなります。こうした仕事は落ち着いた状態のほうがうまくいきます。
ヤーキーズとドットソンはこの結果について、細かい感覚の区別や複雑なつながりをあまり求めない易しい習慣は、強い刺激のもとでも簡単に作られうると、慎重に書いています。それだけこの結論は、最初から断定ではなく推測に近い言い方でした。
同じ人が同じ緊張の水準でも、ある仕事はうまくこなし、別の仕事は台なしにしてしまう理由がここにあります。ほどよい緊張は一つの数字で決まるのではなく、仕事の性質によって動きます。試験問題でいえば、単純な暗記問題と、いくつもの段階を踏む記述問題とでは、気持ちよく取り組める緊張の高さが違うかもしれないということです。

逆U字曲線はどのように定着したのか

今日の教科書で見る曲線は、ずっとあとになって作られました。1950年代ごろから、研究者たちは元の論文のグラフに出ていたU字型の曲線に注目し、それを覚醒とパフォーマンスの関係として読み替え始めました。カナダの心理学者ドナルド・ヘッブ(Donald Hebb)が1955年の論文で、覚醒とパフォーマンスの逆U字の関係を神経系の言葉で説明したことが大きなきっかけとされます。
- 元の法則(Original Finding):課題の難しさによっていちばん良い刺激の強さが変わるという内容です。
- のちの解釈(Inverted-U Curve):覚醒が中くらいのときにパフォーマンスが最も高くなるという曲線で、ヘッブの理論と混ざって広まりました。
そのため、この曲線はヘッブの曲線(Hebb's curve)と呼ぶほうが歴史的にはより正確だという指摘もあります。法則の名前はそのまま残りましたが、中身は時間とともに変わってきたわけです。また、元の実験はマウス数匹による小さな実験で、覚醒やパフォーマンスを直接測ったわけでもなかった点も一緒に覚えておく必要があります。マウスの学習の速さを、人の試験の点数や仕事の成果にそのまま置き換えて読むことはできないからです。
限界を知って日常で使う方法

この法則はおおよその傾向を示す図であって、誰にでも必ず当てはまる公式ではありません。ほどよい緊張の高さは、人の性格や経験、課題への慣れによって変わり、緊張を一つの数字で正確に測ることも難しいからです。曲線は考えやすいように描いた図にすぎず、これを実際の人のパフォーマンスにそのまま重ねて読むと、誤解が生まれやすくなります。
(1)まず仕事の性質を見る
新しく学ぶ難しい仕事なら気持ちを落ち着ける方向が、体に染みついた単純な仕事なら目標を高くして緊張を上げる方向が、助けになることがあります。
(2)緊張を下げたり上げたりする方法を持っておく
緊張しすぎるときは呼吸をゆっくりにしたり、やることを細かく分けたりし、ゆるみすぎているときは短い締め切りを決めてみる、といった形で調整できます。
(3)曲線を基準表として使わない
今の自分の緊張が曲線のどのあたりかを正確に言い当てようとするより、仕事がうまくいくときと行き詰まるときの体と心の状態を自分で記録しておくほうが、自分だけのほどよい緊張の水準を見つけるのに役立ちます。
緊張はなくすべき敵ではなく、仕事の性質に合わせて整えて使う材料です。自分の仕事がどのくらいの緊張を呼ぶのかに気づき、それに合わせて高めたり低めたりすること、それがヤーキーズ・ドットソンの法則の第一歩です。