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煮沸せずに菌を抑える、低温殺菌(Pasteurization)

スーパーの冷蔵ケースで牛乳を選ぶと、包装に「殺菌」の文字とともに温度と時間が書かれた製品をよく見かけます。搾りたての牛乳は栄養が豊かなぶん、細菌も急速に増える食品ですが、私たちはほぼ毎日この牛乳を安心して飲んでいます。食べ物をぐつぐつ煮なくても有害な細菌を減らし、安全にする方法があり、それが「低温殺菌(Pasteurization)」です。

低温殺菌とは、簡単に言えば「食品を100℃より低い温度で決められた時間加熱し、病原菌と腐敗を起こす微生物・酵素を減らし、保存期間を延ばす方法」を意味します。この方法を初めて実験で示したフランスの科学者ルイ・パスツール(Louis Pasteur)の名にちなみ、英語ではパスツリゼーションと呼ばれ、牛乳やジュース、ビール、液卵などに広く使われています。

本資料では、ワインから始まった殺菌の歴史から、温度と時間を合わせる原理、滅菌との違い、栄養損失をめぐる誤解と新しい殺菌技術までを順に見ていきます。

牛乳を63℃で30分、または72℃で15秒殺菌したあと、すばやく冷却して冷蔵保存する流れ。殺菌は滅菌とは異なり、一部の微生物や芽胞が残ることがある。
牛乳殺菌の代表的な温度と時間の組み合わせと、冷蔵保存までの流れ。出典:米国FDA, Grade A Pasteurized Milk Ordinance。一般的な牛乳の工程例であり、製品ごとの条件と保存表示に従ってください。

食卓の安全を守る熱、低温殺菌の原理と使い道

ワインから始まったパスツールの解決策

1860年代のフランスのブドウ畑近くの質素な実験室で、ひげを生やした科学者が銅の湯煎に赤いワイン瓶を浸し、温度計を見ながらゆっくり温め、机の上にガラスフラスコと顕微鏡が置かれている様子

19世紀フランスのワイン産地では、熟成中のワインが酸っぱく変質してしまうことがしばしばありました。1864年の夏、幼少期を過ごしたアルボワ(Arbois)に滞在していたパスツールはこの問題を研究し、若いワインを50〜60℃程度で短く温めるだけで酸敗を起こす微生物が死に、その後もワインが味を失わずに熟成することを明らかにしました。

(1) 煮なくても十分
それより前に、フランスの菓子職人ニコラ・アペール(Nicolas Appert)が食べ物を瓶に入れて煮る保存法を開発していましたが、長く煮るほど味と香りが変わりやすかったのです。パスツールの発見は、必要な分だけ温めても微生物を抑えられるという点で新しい道を開きました。

(2) 牛乳へ移った殺菌
1886年、ドイツの化学者フランツ・フォン・ソクスレト(Franz von Soxhlet)が牛乳にもこの方法を使おうと提案しました。当時、都市に運ばれてくる牛乳は結核を広げる主な経路であり、イングランドとウェールズでは1912年から1937年のあいだだけで、牛乳由来の結核で約6万5千人が亡くなったと推定されています。1912年にアメリカのニューヨーク市が牛乳の殺菌を規定し、翌年に義務化したあと、多くの国がそれに続きました。


温度と時間のバランス、殺菌の三つの方式

清潔な近代的な牛乳加工工場の中に、輝くステンレスの配管とプレート式熱交換器が並び、白い作業着と衛生帽を着た作業員が制御盤を確認している様子

殺菌の核心は温度と時間の組み合わせです。温度を下げれば長く加熱し、温度を上げればごく短く加熱しても近い殺菌効果が得られます。コーデックス(Codex Alimentarius)は、牛乳殺菌の目標を、熱に強い病原菌コクシエラ・バーネッティ(Coxiella burnetii)を10万分の1以下に減らすこととしています。

  • 低温長時間殺菌(Low Temperature Long Time): 63〜65℃で30分間ゆっくり温める、最も古い方式です。
  • 高温短時間殺菌(High Temperature Short Time): 72〜75℃で15〜20秒加熱し、世界で最も広く使われています。
  • 超高温瞬間殺菌(Ultra-High Temperature Processing): 130〜150℃で0.5〜5秒加熱し、微生物をほとんど残しません。

私たちがよく呼ぶ「低温殺菌」は沸点より低い温度を使うという意味で付いた名前で、国内で市販されている牛乳のかなりの部分は、実際には120℃を超える温度で数秒処理して流通期限を延ばす方式で作られています。


殺菌と滅菌はどう違うのか

台所の開いた冷蔵庫の棚にはラベルのないガラスの牛乳瓶が、隣の食器棚の棚板には常温保存用の白い牛乳パックが置かれ、調理台の上に牛乳一杯がある様子

殺菌は有害な微生物を安全な水準まで減らすことであり、すべての微生物をなくす滅菌(Sterilization)とは異なります。とくに硬い殻に包まれた細菌の芽胞は、殺菌温度でも生き残ることがあります。

(1) 冷蔵保存が必要な理由
殺菌牛乳は残った微生物が再び増えないよう常に冷たく保つ必要があり、冷蔵状態では通常2週間前後品質が保たれます。一方、超高温で処理したあと無菌状態で包装した滅菌牛乳は、開封前まで常温でも数か月保管できます。

(2) きちんと殺菌されたか確かめる方法
牛乳中の酵素であるアルカリ性ホスファターゼ(Alkaline Phosphatase)は殺菌温度で破壊されます。そのためこの酵素が残っていなければ、よくある病原菌も一緒に消えたと判断し、わが国の食品公典も低温長時間・高温短時間殺菌牛乳でホスファターゼが検出されないよう定めています。


栄養損失の誤解と熱を使わない殺菌

近代的な食品技術施設で、白い作業着の技術者が密封された果物・野菜ジュースの瓶を入れたかごを大きな円筒形の高圧処理装置に入れており、そばに新鮮な果物と野菜が置かれている様子

殺菌すると栄養がすべてなくなるという話をよく聞きますが、実際の変化は大きくありません。熱に弱い一部のビタミンが少し減る程度で、タンパク質やカルシウムのように牛乳を飲む主な理由になる栄養素はほぼそのまま残ります。

殺菌していない牛乳の危険

殺菌していない生牛乳は、サルモネラ(Salmonella)、リステリア(Listeria)、腸管出血性大腸菌などの細菌に汚染されるおそれがあります。アメリカ疾病対策予防センターは、適切に管理されていない生牛乳がほかの食中毒原因よりはるかに多くの入院患者を生むと警告しています。とくに子どもと高齢者、妊婦にはより危険です。

熱の代わりに圧力と電気で

近年は味と香りをよりよく保つため、熱をほとんど使わない方法も用いられます。非常に高い圧力をかける高圧処理(High Pressure Processing)と、短い電気ショックを与えるパルス電場処理(Pulsed Electric Field Processing)が代表的で、搾りたてジュースなどに活用されています。


低温殺菌は、煮ない程度の熱で有害な微生物を減らし、食品の味と栄養は守りながら安全と保存期間をともに延ばす技術です。160余年前にワインを守ろうとした実験は、今日では牛乳一パックの安全を支える公衆衛生の基本になりました。

包装に書かれた殺菌方式と保管温度をもう一度確認し、開けた牛乳はすぐ冷蔵庫に入れる小さな習慣だけでも、その効果を最後まで守れます。

食品に潜む見えない危険を理解すること、それこそが安全な食卓への第一歩です。