熱いコーヒーを机に置いておくとひとりでに冷めますが、冷めたコーヒーがひとりでに熱くなるのは見たことがありません。割れたカップが元に戻ったり、水に落としたインクが一滴に集まったりすることもありません。エネルギーは消えずにそのままなのに、自然は一方向にしか進まないように見えます。この方向を数値でつかまえた概念が「エントロピー(Entropy)」です。
エントロピーとは、簡単に言えば「エネルギーがどれだけ広く散らばっているか、あるいは一つの状態をつくる方法がどれだけ多いか」を表す物理量です。よく「乱雑さの度合い」と紹介されますが、その言葉だけでは誤解しやすい点が多くあります。
本資料では、エントロピーの概念と誕生の背景から、熱力学第二法則、ボルツマンが明らかにした確率的な意味、そしてよくある誤解まで、わかりやすく整理します。
エントロピーの誕生と意味
エントロピーはどのように生まれた概念なのか?

19世紀、蒸気機関が世の中を変えていたころ、科学者たちは熱をすべて仕事に変える機関がなぜつくれないのかを不思議に思っていました。ドイツの物理学者クラウジウスは1865年、この問題を解くために新しい量を定義し、ギリシャ語で「変化」を意味する言葉にちなんでエントロピーと名づけました。
- エントロピー(Entropy):熱がどの温度でやり取りされたかをもとに定義した状態量で、その変化量は可逆過程でやり取りされた熱を温度で割った値です。
- 熱力学第二法則(Second Law of Thermodynamics):孤立系のエントロピーは減らず、増えるか変わらないかのどちらかであるという法則です。
- 孤立系(Isolated System):周囲と物質もエネルギーもやり取りしない系です。
エントロピーは状態量なので、現在の状態が決まれば値が決まります。その状態にどんな道筋でたどり着いたかは、値に影響しません。
単位にはジュール毎ケルビン(J/K)を使います。この法則のおかげで、熱機関は取り入れた熱をすべて仕事に変えることはできず、一部は必ず低温側に捨てなければならないことが説明できます。
熱はなぜ熱い所から冷たい所へしか流れないのか?

熱い物体から冷たい物体へ熱が移ると、熱い側はエントロピーが減り、冷たい側は増えます。ところが同じ熱でも温度が低いほどエントロピーを多く増やすため、二つを合わせた全体のエントロピーは増えます。反対に、冷たい物体から熱い物体へ熱がひとりでに流れると全体のエントロピーが減ってしまうので、自然界では起こりません。
簡単に計算してみましょう。400Kの物体から300Kの物体へ1,200Jの熱が移ったとすると、熱い側は1,200 ÷ 400 = 3J/K減り、冷たい側は1,200 ÷ 300 = 4J/K増えます。合わせると1J/K増えたことになるので、この向きの熱の移動は可能で、逆向きは不可能です。

(1) エネルギーの量は変わらない
熱が移ってもエネルギーの総量は変わりません。熱力学第一法則はこの点を述べています。
(2) エネルギーの質は落ちる
散らばった熱は仕事として使いにくくなります。室温と同じになったコーヒーからは、もう仕事を取り出せません。
(3) 元には戻せない
エントロピーが増える変化は、元に戻せない変化です。そのためエントロピーは、時間が流れる向きを示す目印としてよく語られます。
ボルツマンが明らかにした確率という顔

クラウジウスが熱の流れでエントロピーを定義したのに対し、オーストリアのボルツマンは粒子一つひとつの配置で同じ概念を説明しました。見た目に一つの状態をつくりうる粒子の配置の数が多いほど、エントロピーは大きいという考え方です。式で書くとS = k ln Wで、kはボルツマン定数、Wはありうる配置の数です。
[例] コイン100枚を投げる
コイン100枚を投げたとき、すべて表になる方法はたった一通りです。一方、表と裏が50枚ずつになる方法は、1のあとに0が29個つくほどの数があります。コインを無作為に混ぜるとほとんどいつも表裏が均等に混ざった姿になりますが、それは特別に好まれているからではなく、そうなる場合の数が圧倒的に多いからです。
空気の分子も同じです。部屋の片隅に空気が集まる可能性は、ないわけではなく、あまりにも小さいだけです。エントロピーが増えるという法則は、確率の高いほうへ進むという話です。
ボルツマン定数は約1.38 × 10の−23乗 J/Kと、とても小さな値です。私たちが目にする大きな物体には粒子が膨大にあるため、エントロピーの値が目に見える大きさになります。この確率の見方は、のちに情報理論にもつながり、シャノンが情報の不確かさを測る量に同じ名前をつけました。
エントロピーについてのよくある誤解3つ

エントロピーは日常でもよく使われる言葉なので、意味が混ざりやすくなります。次の三つを押さえておくと、ずっと正確に理解できます。
(1) エントロピーは散らかり具合ではない
部屋の散らかり具合とエントロピーは直接の関係がありません。エントロピーはエネルギーが散らばった程度とありうる配置の数を指すもので、見た目の整理状態を測る尺度ではありません。
(2) どこでも増えるわけではない
冷蔵庫の中はエントロピーが減りますが、背面から熱を出して外のエントロピーをさらに大きく増やします。生き物もエネルギーを取り入れ、熱を出すことで秩序ある体を保っています。法則が述べているのは、孤立系全体のエントロピーです。
(3) 減る可能性がまったくないわけではない
分子が数個しかない小さな系では、エントロピーが一瞬減ることが実際にあります。ただし粒子が多くなるほど、そのようなことは現実には起こらないほど稀になります。
エントロピーは、自然がどちらへ流れていくのかを教えてくれる羅針盤です。エネルギーが減るからではなく、役に立つ形でまとまっていたエネルギーが広がっていくから、私たちは常に燃料を補給し、食事をとらなければなりません。秩序をつくることには、いつもどこかで支払うべき代価がついてきます。
冷めたコーヒーも、溶けた氷も、流れていく時間も、みな同じ法則の上に立っています。目の前の変化がなぜ一方向にしか起こらないのかをエネルギーの散らばりとして読み解くこと、それがエントロピーを理解する第一歩です。