食用油やラードのようにぬるぬるした油は、水でいくら洗ってもなかなか落ちません。ところが、この油に強いアルカリ性の溶液を混ぜてかき混ぜると、時間とともに油汚れを落とすせっけんに変わります。油がかえって油を洗い流す物質になるわけです。このように油をせっけんに変える化学反応があります。それが「けん化(Saponification)」です。
けん化とは、簡単にいえばエステル(ester)という物質が水酸化ナトリウムのようなアルカリ水溶液と出会い、カルボン酸塩とアルコールに分かれる反応のことです。名前はせっけんを意味するラテン語のサポ(sapo)に由来し、分かれてできたカルボン酸塩の鎖が長い場合、それをせっけんと呼びます。
本記事では、けん化反応がどのように起こるのかから、せっけんが汚れを落とす原理、けん化がたどってきた歴史、そしてせっけん以外に現れるけん化のさまざまな姿まで、順に見ていきます。
油を洗い流す油の誕生
けん化反応のしくみ

けん化は、アルカリの助けを借りて油の分子を切り離す反応です。化学ではアルカリ加水分解の重要な一種に分類されます。
(1) トリグリセリドという原料
植物油や動物性脂肪は、ほとんどがトリグリセリド(triglyceride)でできています。グリセロール1つに脂肪酸3つがエステル結合でつながった形で、けん化の伝統的な原料です。
(2) 結合を断ち切る水酸化物イオン
アルカリ溶液中の水酸化物イオンがエステル結合の炭素側を攻撃すると、結合が切れます。その結果、脂肪酸はナトリウムと対になった脂肪酸塩、つまりせっけんになり、残りの部分はグリセロールとして離れていきます。
(3) 一緒にできるグリセロール
たとえば、ステアリン1分子は水酸化ナトリウム3分子と反応して、ステアリン酸ナトリウム3分子とグリセロール1分子になります。この過程はグリセロールをつくる主要な工業的方法でもあり、グリセロールをせっけんに残して保湿成分として使うこともあります。
油ごとにけん化に必要なアルカリの量は異なり、これをけん化価(saponification value)といいます。せっけんをつくる人たちは、使う油の実際の値が実験室の平均と少し異なることがあるため、アルカリをわざと少し足りなめに入れて、できあがったせっけんにアルカリが残らないようにします。
せっけんが汚れを落とす原理

けん化でできたせっけん分子は、一方は水を、もう一方は油を好むという独特な構造をもっています。
(1) 二つの顔をもつ分子
せっけん分子の頭部は電気を帯びていて水となじみやすく、長い炭化水素の尾部は油となじみやすくなっています。このように性質の異なる二つの部分をあわせもつ物質を界面活性剤といいます。
(2) 油汚れを閉じ込めるミセル
水中では、せっけん分子の尾部が油汚れのほうへ入り込み、頭部は外側の水のほうを向きます。こうして油汚れを内側に抱え込んだ小さな球状のミセル(micelle)ができ、ミセルは水に混ざって一緒に洗い流されます。

(3) 硬いせっけんと軟らかいせっけん
どのアルカリを使うかによって、せっけんの性質が変わります。
- ナトリウムせっけん(sodium soap):水酸化ナトリウムでつくり、硬く固まって固形の洗顔・浴用せっけんになります。
- カリウムせっけん(potassium soap):水酸化カリウムでつくり、軟らかいか液体の状態なので、液体せっけんに使われます。
硬水でせっけんの泡が立ちにくいのは、水中のカルシウム・マグネシウムイオンがせっけんと結びつき、水に溶けないかすをつくるためです。
けん化がたどってきた歴史

けん化は、人がはるか昔から使ってきた化学反応の一つです。
(1) 古代の灰汁と油
せっけんに似た物質をつくった最も古い痕跡は、紀元前2800年ごろの古代バビロンに見られます。紀元前2500年ごろのシュメールの粘土板には、油と木灰を一緒に温めて、羊毛の布を洗うときに使う物質をつくる方法が記されています。
(2) 木灰から得たカリウム
初期のせっけんは、主に動物の脂と木灰から浸出させたカリウム成分でつくられました。灰を水に浸してできた灰汁が、まさにけん化に必要なアルカリの役割を果たしたのです。一方、今日のせっけんはほとんどが植物油でつくられ、オリーブオイルでつくったせっけんはカスティーリャせっけんやマルセイユせっけんと呼ばれ、肌にやさしいことで知られています。
(3) シュヴルールが明らかにした油の正体
19世紀初め、フランスの化学者ミシェル・ウジェーヌ・シュヴルール(Michel Eugène Chevreul)は動物性脂肪を研究し、ステアリン酸やオレイン酸などの脂肪酸を分離しました。油が脂肪酸とグリセロールでできていることも、彼の研究によって明らかになりました。彼の研究によってせっけんやろうそくをつくる工程は大きく変わり、シュヴルールは近代有機化学の基礎を築いた人物と評価されています。
せっけんの外で出会うけん化

けん化は、洗面台の外の思いがけない場所でも起こります。
(1) 台所の火災を消す消火器
食用油の火災は一般的な可燃性液体の火災よりも高温で燃えるため、普通の消火器ではなかなか消えません。そこで台所用の消火器は、燃えている油をすばやくけん化させ、燃えないせっけんの層に変えるという方法で火を消します。
(2) 油彩画の中に現れるせっけんの塊
鉛白や亜鉛白のような金属成分を含む絵の具が油の中の脂肪酸と反応すると、金属せっけんができることがあります。このせっけんが絵の表面に浮き出てくると小さなこぶや白いしみができ、15世紀から20世紀までの多くの油彩画でこうした損傷が確認されています。
(3) 遺体に残る死蝋
水気が多く空気の通りにくい場所に埋められた遺体では、脂肪がけん化して蝋のような死蝋(adipocere)に変わることがあります。死蝋は体の形を長く保存し、法医学の捜査で手がかりになることもあります。
けん化は、油とアルカリというありふれた材料から、油汚れを落とす物質をつくり出す反応です。手を洗うほんの短いひとときにも、数千年にわたって積み重ねられた化学の知恵がともにあります。
毎日使うせっけん一つに込められた分子の変化を思い浮かべてみること、それが暮らしの中の化学を学ぶ第一歩です。