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何で伝えるかが世界を変える、メディアはメッセージである(The Medium Is the Message)

同じニュースでも、新聞記事で読むとき、テレビ画面で見るとき、スマートフォンの通知で受け取るときでは感じ方が違います。私たちはふだん何が書かれているかばかりを気にしますが、その内容を運ぶ「器」のほうが、私たちの考えや暮らしをもっと大きく変えているのかもしれません。

この考えを一文に凝縮した言葉が「メディアはメッセージである(The Medium Is the Message)」です。カナダのコミュニケーション理論家マーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan)が1964年に刊行した『メディア論―人間の拡張の諸相(Understanding Media: The Extensions of Man)』の第1章の題名で、メディアが伝える内容よりもメディアそのものを先に見るべきだという主張です。

この記事では、この言葉が意味すること、マクルーハンが挙げた代表的な例、あわせて知っておきたい概念、そしてテレビとインターネットの時代に続いた議論を順に見ていきます。


内容より器を見よ、マクルーハンのメディア論

「メディアはメッセージである」とは何か

明るい木のテーブルで、ひとりが折りたたんだ新聞を広げ、古いテレビにはニュースキャスターが映り、もう一方の手は画面の消えたスマートフォンを持っていて、同じニュースを伝える異なる器を示している様子

マクルーハンは「メッセージ」という言葉を二重の意味で使いました。ひとつは目に入りやすい内容、もうひとつは見落としやすいメディアの性格です。

(1)内容が性格を覆い隠す
マクルーハンは、どんなメディアでもその「内容」がメディアの性格を見えなくさせると述べました。人々は記事や番組に集中しているあいだ、そのメディアが人々の集まりや行動の規模と形を変えていることに気づかないというのです。

(2)本当のメッセージは変化である
彼の言うメッセージとは、新しい発明が人々の暮らしにもたらす規模や速さ、パターンの変化です。鉄道が伝えた本当のメッセージは運んだ荷物ではなく、都市や仕事、余暇の姿を新しく組み直したことだ、というわけです。

(3)メディアの内容は別のメディアである
マクルーハンは、あるメディアの内容は常に別のメディアだと考えました。話し言葉は書き言葉の内容となり、書き言葉は印刷の内容となり、印刷はさらに電信の内容となります。


電球が示す、内容のないメディア

夕暮れの闇の中に吊るされた温かな電球ひとつが小さな工房を照らし、その明かりの下で人々が集まって座り本を読んでいる様子

この概念をもっともよく示す例として、マクルーハンは電灯を挙げました。

(1)内容がなくても世界を変える
新聞には記事があり、テレビには番組がありますが、電球にはこれといった内容がありません。それでも電灯は、闇に包まれていた夜に、人々が働き、集まり、学ぶための空間を生み出しました。マクルーハンは、電球はただ存在するだけで環境をつくると表現しました。

(2)ニュースの本当の効果
凄惨な犯罪を扱うテレビニュースも同じです。視聴者に残るのは事件ひとつのあらすじよりも、そうした出来事が毎晩の夕食どきに居間まで入り込んでくるという経験がもたらす、犯罪に対する態度の変化かもしれません。

(3)泥棒が投げる肉の切れ端
マクルーハンはメディアの内容を、心の番犬の気をそらすために泥棒が投げ与えるおいしそうな肉の切れ端にたとえました。私たちが内容に気を取られているあいだに、メディアがもたらす構造的な変化は静かに、そして長い時間をかけて染み込んでいくという意味です。


あわせて知っておきたいマクルーハンの概念

明るい机の上に古い木の車輪、開いた本、たたんだセーター、昔のラジオとダイヤル式電話がきちんと並べられ、メディアが身体と感覚を拡張するという考えを表している様子

マクルーハンはこの言葉のほかにも、今なおよく引用される概念をいくつも残しました。

  • 人間の拡張(Extensions of Man):車輪が足を、本が目を、衣服が皮膚を広げるように、すべてのメディアは人間の感覚と身体を拡張したものだという考えです。
  • ホットなメディアとクールなメディア(Hot and Cool Media):ラジオや映画のように情報が密で受け手が補う部分の少ないメディアを「ホット」、電話や漫画のように情報がまばらで受け手が積極的に補わなければならないメディアを「クール」と呼びました。
  • 地球村(Global Village):電気メディアが遠く離れた人々をひとつの村のように結びつけるという表現で、1962年の著書『グーテンベルクの銀河系(The Gutenberg Galaxy)』で広く知られるようになりました。

1967年にはデザイナーのクエンティン・フィオーレ(Quentin Fiore)とともに『メディアはマッサージである(The Medium Is the Massage)』を刊行しました。もともと「メッセージ」と書くはずだった題名が印刷ミスで変わったという話が伝わっており、マクルーハンはメディアが人をもみほぐし揺さぶるという意味が込められるとして、この題名のほうを気に入ったといいます。


テレビとインターネットの時代に続いた議論

明るいリビングのソファに座った若い人がスマートフォンをスクロールしていて、後ろには電源の切れたテレビが置かれている様子

マクルーハンの主張は、新しいメディアが登場するたびに呼び戻されてきました。

(1)テレビへの警告
アメリカのメディア批評家ニール・ポストマン(Neil Postman)は1985年の著書『愉しみながら死んでいく(Amusing Ourselves to Death)』で、マクルーハンの言葉が正しいなら、テレビは内容より形式が先に立つやり方で公共の対話を損ないかねないと懸念しました。

(2)アルゴリズムとソーシャルメディア
今日、一部の記者や研究者は、ソーシャルメディアとおすすめアルゴリズムをこの理論のよい例に挙げます。何を投稿するかよりも、短い動画と終わりのないスクロールという形式そのものが、集中のしかたや世論が広がる速さを変えているというのです。

(3)限界への指摘
反対に、メディアの力を強調しすぎて、同じ技術でも人々の使い方によって結果が変わるという点を軽く見ているという批判もあります。そのためこの言葉は、正解というよりも、メディアを見るまなざしを変えてくれる出発点として読むのがふさわしいでしょう。


「メディアはメッセージである」という言葉は、私たちが毎日使う新聞や画面、スマートフォンが単なる通り道ではなく、暮らしのリズムと考え方の枠組みをともに形づくる環境であることを気づかせてくれます。

何を見ているかとあわせて、何で見ているのかをもう一度問うこと、それが賢いメディアの読み方の第一歩です。